out of control  

  


   7

 アイクたちと合流するために思いがけず長逗留したクリミアの村は、のんびりとしたベオクの人々が肩を寄せ合うなかなか暖かい場所だった。
 これは人が、という意味も少しあるが、気温も含めてだ。
 もちろんまだ冬の内だから村人は寒いと言うが、デインや俺の国――キルヴァスに比べれば、まだ暖かい方だ。
 畑は種を植える時期まで休み、保存庫には一冬を超えてもまだ食料に余裕がある。村人と旅人のための店もある。
 まあ、悪い場所じゃないね。差別意識が強いといっても、さすがにデインほどじゃないか。ティバーンが年寄りに頼まれて気さくに屋根を直してやったりするものだから、意外なぐらいあっさりと打ち解ける相手が増えていった。

「ネサラ、飲んでるか?」
「……ほどほどにね」
「カラスの兄ちゃん! こっちの果実酒なら飲みやすいぜ!」
「潰れても心配すんな! 古今東西、酔っ払いの対処法ってな同じよ。なあ!?」
「そりゃそうだ。俺たちラグズの国でも似たようなもんだぜ!」

 ……その上、この男は酒が飲めるからな。そりゃ、打ち解けるのも早かろうよ。
 ここは村の酒場だ。一日の仕事の終わりに旅人や村の男衆が集まる社交場らしい。
 男は若いので俺ぐらいから、上はニアルチぐらいに見えるのまで十数人で、女は三人。どの女も笑顔と仕草に色気があって、お酌と夜の相手が仕事だとわかる。
 それにしても、賑やかだ。キルヴァスでは酒そのものが贅沢品で主に薬として使われていたから、こんな風に他人と親睦を深めるために飲むことはなかった。だからどうして酔っ払って仲良くなるのか、実のところ俺にはよくわからない。
 酔っ払ったティバーンがベオクの男に肩や背中を叩かれているのを眺めながら、俺は一人、内心で首をかしげていた。

「カラスのお兄さん、チーズはいかが?」

 ふと、鼻に甘ったるい匂いを感じる。カウンターの隅で果物の絞り汁のような酒の入ったグラスをちびちび傾けていると、黒っぽい髪を上げたベオクの女が前に立った。
 匂いの出所は、この女だ。大きく開いたワンピースの襟ぐりから、半分ほどこぼれそうになった胸元の谷間につけた香水らしい。

「いただこう」
「良かった。この村のチーズは美味しいのよ。王都メリオルでも人気があるんだから」

 マルロの母親と同じぐらいか。少しふくよかだが、笑うと両頬にできるえくぼが愛嬌のある柔らかい雰囲気の女だった。
 知ってる匂いだと思ったら、そうか。この女がレニング卿の相手をしたんだな。

「うふふ」
「なんだ?」
「お兄さん、まだ若いみたいね」
「……ラグズとしてはな」

 それでも、もう子どもじゃない。そんな意味を込めて答えると、俺は差し出された皿の薄切りのチーズを食べた。
 ……美味いな。色は濃いが、味はまろやかで尖っていない。日持ちしそうだからセリノスに仕入れられたらいいのに。
 そう思ってまじまじ皿を見ていると、次に干し葡萄とバターを練った小さな塊をいくつか乗せた皿を差し出して女が笑った。

「お口に合ったようで良かったわ。ラグズと言っても、好みは私たちとあまり変わらないのね」
「それは…そうだろう。この店にラグズはよく来たのか?」
「ええ。復興作業の時に何度も。獣牙族の方もいたし、鳥翼族の方も来たわ。猫と鷹は陽気、虎はほとんどの人が静かにお酒を味わって、鴉の人はあまりお酒が好きじゃないみたいで食事を楽しんでくれて…一番おとなしかったわね」
「……そうか」

 このつまみも美味い。
 二つ、三つと口に運びながら相槌を打つと、女は残りが少なくなったグラスにユクの風味のする酒を注ぎながら続けた。

「ええ。最初はみんなおっかなびっくりだったし、差別するようなことを大きな声で言う人もいたんだけど、酒場(ここ)でね、その人が息子を亡くした話を聞いて、皆さんとても同情して……。鷹や虎の人なんか大きな身体で『子を先に亡くすなんて、一番辛いことだ』っておいおい泣いてくれて、猫の人はしんみりした後に得意な歌や踊りを披露してくれて……打ち解けたわね。うふふ、現場の人からね」
「目に浮かぶな」
「そうでしょう? 鴉の人も親切にしてくれたのよ。次の日、酷い二日酔いになったベオクの男衆に、煎じ薬を作ってくれたわ。口が曲がりそうなくらい苦いけど、良く効いたから作り方を教えてくれって村の薬師が頼んだぐらいよ」
「キルヴァスの薬だな。確かにあれは苦い」

 思わず俺の口元が綻んだ。親睦を兼ねた復興作業に送り出したのは、気性の穏やかな連中ばかりだ。上手くやったんだな。

「ええ。もちろんまだ複雑な気持ちでいる人もいるけど…でも、ラグズの人ともっと仲良くなりたい人もたくさんいるわ。もしお兄さん方が嫌な思いをしたら、それを思い出してね」
「あぁ、わかった。それはラグズも同じだ」
「よかった!」

 ぽん、と豊かな胸の前で手を合わせると、女は俺の皿にいくつか果物を乗せて男衆の方へ戻った。
 やれやれ、とりあえず静かになったか。
 ……本当は宿の部屋で村の復興状況についていろいろ書き記しておきたかったんだが、仕方がないな。
 酒の席に誘われたティバーンが断る訳がない。しかも、昨日と今日ゆっくり寝たからか俺の熱もすっかり引いたとあっては、俺を一人残して出かけることなど考えもしないらしい。
 酒を飲むのも交流の大切な手段の一つだと言われれば、あまり強く断れなかったからな。
 ちら、と見た先で、ティバーンが四方八方の酔っ払いから笑顔を向けられていた。
 斜め後ろのやつなんか、店に入ったとたん唾を吐いて出て行こうとしたくせに、いつの間にティバーンの肩を抱いて酒を注ぎ合う仲になったんだ?
 緑がかった大きな翼に触ってしきりに感心してるやつもいるし、自慢の歌を披露し始めたやつもいる。
 そんな騒ぎを眺めていると、ふとティバーンと目が合った。
 ……笑いやがって。本当はあんた、俺の何倍もベオク嫌いのくせに。
 まあ、それも昔の話なんだろうさ。
 俺は駄目だな。……そんな風にはさっさと割り切れない。もちろん、必要なだけの愛想を見せるのに不自由はないがね。
 そのまましばらく付き合わされて、時々絡んでくる輩に悪気なく翼や身体に触られるのに耐えていたら、眠気に負けてうたた寝しそうになった。
 ベオクや獣牙族は朝まで飲むこともあるらしいが、俺たち鳥翼族の夜は早い。基本的には早寝早起きだ。見えないんだから。
 愛想笑いも限界になりそうなところでティバーンが横に来て、大きな息をつきながらたっぷりと水を飲んだ。
 フェニキス流だな。酒毒にやられないように、飲み終わりにはこうして大量の水で薄めておくんだそうだ。

「おまえも飲めよ」
「俺は酔ってない」

 せっかく体調が良くなったところだからな。酒とも言えないようなものを少したしなんだ程度だ。嘘じゃないからそう答えたのに、「いいから」と言ってティバーンは俺の口元にも水のグラスをつける。
 ……しょうがないな。

「銀の武器がな」
「え?」
「そこの角の武器屋にいくつかあるってよ」
「グレイル傭兵団にか?」

 周りの喧騒に負けないよう耳元で言われた言葉に訊き返すと、ティバーンは俺の皿に残った林檎をかじりながら頷いた。

「おう。槍と弓があるそうだ。アイクのとこの槍使いと弓使いはどっちも腕が立つ。あとは教会の聖水と祝福だったか? それがありゃ役に立つんじゃねえか?」
「……確かにな。わかった。じゃあ、その分は経費だな」
「あ?」
「それで、うちとクリミア、どっちが出すんだ?」

 そう訊くと、ティバーンは目を丸くして「そ、そりゃおまえ、アレだろ」なんて白々しくそっぽを向いた。
 ………やっぱりそこまで考えてなかったな。
 銀製品の武器は高価なんだ。現状で化け物騒動が起こっているのはクリミアなんだし、必要経費はあちらに負担してもらいたい。

「グレイル傭兵団にかかった諸経費は後でクリミアに請求する。それでいいな?」
「お、おう。わかった」
「理解が早くて助かるね」

 有無を言わせぬ口調で睨むと、ティバーンは押された様子で頷いてまたグラスに酒を注ごうとする。でも、もうここまでだ。

「おい、ネサラ〜」
「飲みすぎだ。あんたに潰れられたら今の俺じゃ運べないだろ」

 俺の化身の力はまだ戻ってないんだからな。
 空いたグラスに水を注いで目の前に突きつけると、渋々飲んで未練たらしくまだ半分残った酒瓶を眺めていた。
 まったく、この男だけはしっかりしてるんだかしてないんだか、どっちなのかね。

「そろそろ宿に戻るぞ」
「眠いか?」
「当たり前だ。どれだけ長居したと思ってる?」

 とにかく、水を飲みだしたならお開きでいいだろう。そう思って先に立ち上がると、ティバーンも笑って俺の後に続いた。
 それでさて、あとはこの男を連れて帰って先に風呂に突っ込もうと思ったんだが。
 ふと周りの酔っ払いの視線が俺たちに集まってるのに気がついて目を向けると、ランプのせいじゃない赤ら顔の連中がにやにや上機嫌に笑いながら言いだした。

「ほお、そうかそうか! 鷹の兄ちゃんも女房にゃ弱ェなあ〜!」
「黒い別嬪さんなら男でも俺もあやかりてぇや!」
「おお、俺も俺も!」

 ………なんでまたそんな話になってるんだ………?
 一瞬眩暈がしそうになったが、言われたティバーンも負けずに笑いながら俺の腰を抱きよせ、音を立てて俺の頭に口づけて言う。

「そりゃそうだろ。男が女房に弱いってのは、ベオクもラグズも同じだぜ。だからこそ無理してでも働く気になるんだろうが?」

 固まった俺に構わずにやけ面で言ったティバーンに、盛大な歓声と指笛が鳴った。
 だから、どうしてそんな話になってるんだ!?

「あんた、誤解を解く気が本当にあるのか…!?」
「そりゃセリノスの話だろ? 心配しなくてもべつにからかわれたりしねえよ。野郎同士でややこしくなることなんざ、どこでもある話じゃねえか」
「だからって、わざわざそんなこと言わなくてもいいだろうがッ?」
「我慢しろ。こうとでも言っとかなきゃ、俺もおまえもベオクの女に言い寄られて大変だろうが」

 最後は耳元で言われて視線を向けると、女たちが三人、こちらを見ながら素直に残念そうに笑っていた。
 ……俺じゃなくてこの男に言い寄りたいんだと思うが、確かに男とできてることにする方がいいのか。
 ラグズとベオクの間に子ができた後どうなるか、知ってるベオクは少ないらしいからな。

「避妊して楽しめばいいんじゃないのか?」
「女房のくせにつれねえこと抜かすな。大体、ベオクの避妊具で俺に合うやつはねえよ。破れちまうだろ」

 それでもただ言いなりになるのは悔しいからな。流し目で皮肉を言ってやると、ティバーンは鼻を鳴らして大真面目に答えてくる。
 合うやつがない、ね。……試したことがあるのか?

「なんだよ?」
「べつに。破れるってどんな乱暴なことをしてるのかと思っただけだ」

 だから視線をそらしてそう言ったのに、ティバーンは一瞬目を丸くして噴き出し、もう一度椅子に腰を下ろして俺を強引に膝に座らせてしばらく笑い続けた。
 ……なんなんだ?

「畜生、仲良いなあ!」
「てやんでェ、俺だって家に帰りゃ……」
「くそォ、負けるか! マリー、ヘンリエッタ、ジュリア! やっぱり今夜はここでいっしょに過ごすぜ!」

 しかも、ベオクには肴にされて盛り上がられるし。正直、面白くない。

「ティバーン、笑いすぎだ」
「いてて、悪かったって。けど、あれだ。おまえ、本当に可愛いとこがあるなあ」
「意味がわからん。一度医者に目を見てもらえ」
「口尖らせて言う台詞かよ」

 がっしりした鼻を摘んで文句を言うと唇を摘み返されて、むかついたから思い切りその指に噛み付いてやった。

「いてッ! ったく、凶暴な女房だな」
「はン。図体ばかりでかい亭主なんか願い下げだね」
「言っとくが、でかいのは図体だけじゃねえぞ?」
「あぁ、そうだな。態度もでかかった。それで?」

 まだなにかあるのか? おどけて頑丈そうな歯を見せるにやけ面をじろりと睨むと、ティバーンは腕を組んだ俺を膝から下ろしながら降参した。

「いや、その……そんだけだな。ハイ」
「わかればいいんだ」

 俺に口で勝とうなんて百年早い。
 いつの間にか聞き耳を立てられてたんだろう。ベオクの男連中までどっと笑い、俺は明後日の方を見ながら飲みたくもない水の残りを飲んだ。
 とりあえず、気が抜けたなら帰るきっかけとしてはちょうどいい。放っておくと朝まで飲みそうなティバーンの腕を掴んで強引に立たせると、俺ははやし立てる連中に適当に答えながらティバーンを引きずって酒場の出口へ向かう。
 でも、古い扉に手をかけて開きかけた時だった。

「!」

 外で男の悲鳴が響いたんだ。
 騒ぐ酔っ払いの耳にはまだ届かない。でも、俺とティバーンの耳は別だ。
 顔を見合わせるより早く勢い良く扉を開くと、悲鳴は村のはずれの方からだった。数軒の家の明かりがついて、村人も出てくる。

「ネサラ、俺が行く」
「構うな。化身できなくても人手があった方がいいこともある」

 雨は降ってない。でも、近くには川があるんだ。もしも泥の化け物なら、とどめを刺すのに俺が渡された炎の術符が必要になる。
 幸い、夜も警戒が必要だってことで村の中にはあちこちにかがり火がある。だからそれほど暗闇に不自由せずに村のはずれに着くと、もう数人の村人が鍬や松明を片手に腰を抜かした年寄りを庇っていた。

「どうした!?」
「た、鷹のお客人! 虎が……!」

 怯えた顔で振り向く男よりも先に、俺の感覚と、恐らくティバーンの感覚が悟った。
 石や棒切れを投げつけられる先から聞こえてくるのは、獰猛な獣の唸り声だ。
 なりそこないか……!

「く、くそッ! こいつ!!」
「これもラグズなのかッ!?」

 松明に照らされた先には、痩せて骨と皮ばかりになった傷だらけの虎がいた。なりそこない特有の赤く濁った目だけがぎらぎらとして、泡まじりの涎をたらしながら、よろよろとふらついている。
 ティバーンはさりげなくなりそこないに石を投げつけようとする村人の前に立ちながら、つかの間…なにも言わなかった。

「あぁ、かつてはラグズだった。今は薬を飲まされて、壊れちまってるけどな。こうなったらもう、治らない」

 だから俺が言った。淡々と。
 村人の中には知ってるやつもいるだろう。持っていた鍬をそれ以上振り上げられずに苦い顔をして下がる。石と棒切れを握っていた者は、昔家族がなりそこないに襲われたとかで戦意を失っていなかったが、その男はティバーンが下がらせた。

「虎のなりそこないは特に強い。あんたたちは逃げろ。ここは俺が引き受ける」
「け、けどよ」
「こんなでも俺にとっちゃ同じラグズの仲間だ。あんたたちには憎いばかりの相手だろうが……汲んでくれねえか?」

 もう酒の気配もない、穏やかな声でそう言ったティバーンに、誰も否とは言わなかった。
 ただ申しわけなさそうに、あるいは渋々と、一人、二人と安全圏に下がる。

「ネサラ」
「あんたが辛けりゃ、俺がやる」
「馬鹿、下がってろ」
「充分下がってるさ」

 本当は、なにも言わずに俺が化身して終わらせたかったんだがな。それが無理でも、炎の術符を使えば弱点を突けるから、ひとりでも片をつけられる自信はある。
 ……でも、それじゃティバーンが納得しないだろう。
 そう思って答えると、ティバーンは「しょうがねえヤツだ」なんて笑って化身した。

「おお…!」
「本当に鷹だ……」

 緑がかった光がティバーンを包んで、瞬く間に大きな猛禽に変わる。
 高い声で鳴いたティバーンを前に力なく咆える虎が哀れだ。
 雄々しい翼が広がり、一瞬で淡い緑の光を帯びた大鷹が上空に消えた。
 ティバーン、ここだ。
 呆けて見上げるベオクの手から松明を取り、高く掲げる。
 刹那、虎が初めて俺を見つけたように向き直り、痩せ衰えたとはいえ、まだ充分に力強い筋肉を残した後肢で土を蹴って俺に飛び掛る。

「ひ…ッ!!」

 ぼろぼろに割れた爪が眼前に迫った。息を呑んだのは俺に松明を奪われたベオクの男だ。
 かわいそうにな、おまえ……。疲れて、腹が減ってるんだろう?
 大きく開いた口に見えた欠けた犬歯が胸に痛くて、俺は目を閉じることもかわすこともできなかった。
 鋭い悲鳴が上がる。
 今度はベオクじゃない。虎だ。
 一瞬で舞い降りた猛禽の鉤爪が、横殴りに虎の頭を粉砕しながら巨体を吹っ飛ばす。
 苦しみは短かったはずだ。どうっと大きな音を立てて転がった虎が断末魔の痙攣を終えて、太い尻尾が乾いた土の上に落ちた。
 ティバーンの羽が数枚目の前を舞って、虎の上にも落ちる。
 身体から離れた羽にはもう、化身の光はない。目の前に流れた一枚をそっと握ると、大きな羽ばたきの音を立てて俺と村人の前にティバーンが舞い降りた。
 なりそこないとはまったく違う。金褐色に光る目にある知性が、この大鷹は獣ではないとベオクに教えていた。
 息を呑む村人の前で化身が解ける。もう一度淡い緑の光に包まれて人型に戻ったティバーンの顔には、見慣れた大らかな笑顔が浮かんでいた。
 立派だな。昔のあんたなら、ニンゲンへの憎しみに駆られて必要な場面でもそんな顔は見せられなかったろうに。
 そう思った俺の後ろから歓声が上がった。いつの間にか酒場にいた連中も駆けつけてたんだな。それに釣られたようにほかの連中も盛り上がって、ティバーンの強さを称えた。
 そりゃあ強いさ。こいつは鳥翼王なんだから。
 家族に怪我を負わされたことがあると言っていた小柄な男だけは喧騒から離れ、事切れた虎のそばに行って棒切れを振り上げていた。

「大丈夫だ」

 さすがに、それ以上は惨い。慌てて止めようと行きかけた俺の肩をティバーンが掴む。
 動けずに見ていた先で振り上げていた棒が力なく下ろされて、後を追ってきたらしい片目の娘がなにか声をかけてその男を呼び戻していた。
 ……怪我をさせられたのは娘の顔か。俺たちはベオクほど外見の美醜にこだわらないが、それでも女の顔に傷を残すのは良くないくらいの感覚はある。

「な?」
「……ああ」

 なだめるように肩を叩かれて、俺は小さく頷いて倒れたままの虎を見た。
 遺体を担いで連れて帰ることはできないが、せめて一部だけでもどうにかしてやらなきゃな。確か、この前の戦の時は獣牙族は毛を少しだけ切って持ち帰っていた。
 こんなのは俺の感傷にしか過ぎないが、それでもなにかしてやりたい。
  ………こんな傲慢なことを考えるようになったのは、俺もずいぶん平和ボケしたからなんだろうがな。
 そう思って虎のそばに屈むと、酒場にいた女の一人がそばにきた。さっき話した女とは違う、金髪の派手な見目の女だ。

「ナイフ、いるでしょう?」
「あ、ああ」
「知ってるわ。こんな時は毛だけでも持って帰るんですって? その人、幸せよ。きっと」
「…………」
「だから泣いちゃダメよ」

 そう言って赤い唇で笑った女が小ぶりな折りたたみナイフを俺の手に握らせて、おまけのようにショールを肩にかけられて俺は驚いた。
 ……なんで俺は泣いてもないのにこんなことをやたら言われるんだ?
 リアーネだけじゃないのか。女ってのはよくわからない。
 そのまま「寒い、寒い」と駆け戻っていった女を呆然と見送って、俺は動かない虎に目を落とす。
 いつの間にか村人たちを帰したらしいティバーンも横に来た。

「セリノスに帰ったら、すぐに手配してやろうな」
「ああ」
「俺たちがいる間にこいつがここに来てくれてよかった」
「…………」

 本当にそうか?
 それは、訊けない。
 だってもう、こうなったら元に戻せないんだ。せめてリュシオンかリアーネがいたら……いや、ここまで来たらもう、一番力の強いラフィエルやロライゼ様でも無理かも知れない。
 こんなに故郷から遠い場所で、それでも……帰ろうとしたんだろうな。食い物の匂いに引かれてこの村に来たんだろうが、なりそこないが一心に向かっていた方向にはガリアがある。
 遺体は、村人たちの厚意でよりガリアに近い西側の村はずれに葬ることになった。たくさんの花が咲くという少しだけ小高いこの場所なら、いくらか心も休まるだろう。
 そう言ったティバーンはこれ以上自分の鉤爪で虎を傷つけないよう、俺の持つ松明の光を頼りに虎を優しく掴んで運んだのだった。
 俺たち鳥翼族はベオクほど手は強くない。それはこれだけ逞しいティバーンも同じはずだ。それでもティバーンは冷たく固い冬の土を素手で掘った。
 俺も手伝おうとしたんだが、鴉の俺の方が手が弱いからな。ティバーンに断られて、一度村に戻って鍬を借りていっしょに穴を掘った。
 それから荒れてぼそぼそになった毛並みを少し刈り、撫でてやりながら、ティバーンも俺も無言だった。
 毛は俺の手巾に包んでティバーンの懐にしまう。最後に俺がガリアの祈りの言葉を唱え、土を被せようとしたところでまた誰かが来た。
 馬車の音が近づいてきたのは、村の方角からだ。

「ど、どうもお待たせしまして!」
「なんだ、あんた? 神父か?」

 驚いたティバーンが腰を上げて見た先には、いかにもついさっきまで寝ていたような寝癖頭の神父がいた。

「ええ、そうです。亡くなった虎がラグズと聞いて、村人がせめて弔ってやらねばと。故郷からこんなに離れたところで息を引き取るのは、さぞ無念でしょうからねえ」
「いいのか?」

 こいつは、ベオクを襲ったこともあるはずだ。そういう意味で訊いた俺に、神父は困ったように微笑み、聖書を広げる。

「それだけ村に来たラグズの方々は我々に優しかった。我々がどんなに一方的に嫌っても変わらずに。私どもがこの虎の方の死を悼むには、充分な理由ではありませんか?」

 ……それは、なにがあっても笑えと、ただ耐えろと俺たちが命令したからだ。本心じゃない。
 そう思ったが神父の笑顔を見るとなにも言えずに、俺はただ視線をそらした。
 神父は馬車を操っていた髭面の小太りの男と並んで短い祈りの言葉を唱えて、懐から出した聖水と塩を遺体に振りまき、上から土を被せた。
 こうすると迷い出てこないそうだ。……確かに泥の怪物になって出てくる連中はここまで丁寧に埋葬されなかったはずだし、意外に信憑性はあるかも知れない。
 短い弔いの儀式が終わって、神父の好意で差し出してくれた手ぬぐいと聖水の残りで土まみれのティバーンの手を洗う。
 ただ手が汚れたからだと思っていたら、神父に遺体に触ったからだと言われて、俺の手にも聖水がかけられた。

「では、お先に失礼しますよ。お二人とも馬車に乗りますか?」
「いや、飛んで行くさ。俺たちは鳥だからな。ただその鍬だけ返しておいてくれ。感謝の言葉を添えてな」

 濡れた手ぬぐいを片手に笑った神父に、俺よりも先にティバーンが答えて、そのまま空にさらわれる。
 本当に人の話を聞かないやつだな。俺の意思は無視か?

「……珍しいな」
「なにが?」
「いや、怒るかと思ったんだが」
「今さらだ。喜ばしくないことだが、いい加減あんたの強引さには慣れたのでね」

 こんな松明一つじゃ見えないが、片腕で俺を抱いたティバーンの目は今きっと丸くなっているだろう。想像すると、少しおかしい。
 それに、悲しいんだな。
 本当は言いたいことがたくさんあるはずだ。優しいあんたがあの虎のことを考えて、どうしようもない気持ちを抱えてることはわかってる。
 俺が女から借りていたショールをふわりとティバーンの両肩にかけると、俺は少し考えていつも体温が高いのに。今日は冷たくなったティバーンの身体に腕を回した。

「おい、おまえが冷えるぜ」
「あんたの方が冷たいだろ。それに俺はこうしてりゃ寒くない」

 酒の匂いと、ショールに染み付いた香水の匂い。えくぼの女よりもう少し花に近い匂いは、やっぱり安っぽい。貴族の娘じゃあるまいし、良い香水なんか買えないから仕方がないんだな。
 でも、今は前ほど嫌じゃない。
 そこにティバーンの汗まじりの匂いが混ざっていた。ティバーンの匂いに女の香水が混じるのは好きじゃないが、ティバーンが冷えるよりましだ。
 そう思って握り辛い松明を持ち直すと、しばらく黙っていたティバーンが俺の胸元に頬を寄せた。昔、獅子と戦ってついたという十字傷のある方だ。

「ティバーン?」

 硬いティバーンの髪がちくちくする。摺り寄せられて懐から落ちかけた羽を俺が取ると、笑ったティバーンの仕草で心臓の音を聞かれてるとわかって、なぜか鼓動が跳ねた。
 松明だけじゃない。雲の隙間から降りた大きくて白い月の光が俺たちを優しく照らしていた。
 冬の空気が澄んでるって本当だな。ベオクのように目が良ければきっと綺麗な風景が広がってるだろうに。
 俺の目に映るのは上空の風に流れるショールの房と、ティバーンと俺の白い息だけだ。

「困ったな」
「なにが?」

 俺の胸にはりついたまま、ティバーンが少し顔を動かして唇が触れた。俺の剥き出しの肌に。

「喰いてえ」
「………は?」

 一体、どんな繋がりなんだ?
 呆れてティバーンの顔を外そうとした手が掴まれて、ばさばさと俺の翼が慌てる。別にこのまま放り出されたところで俺も飛べるんだから落ちはしないが、それでも抱えられてるうちにいつの間にか飛ぶことをやめていたからだ。

「二人っきりってのは不味かったな」
「ティバーン?」

 大きな厚い手が俺の頬を包んだ。耳に硬い指先が当たる。鳥翼族特有の夜に弱い目にも、俺を覗き込むティバーンの金褐色の目が見えた。
 ……月も松明も消えればいいのに。
 そう思ったのはたぶん、逃げられるのに逃げなかった俺の顔を見られたくなかったからだ。
 自分で自分のしている表情がわからない。こんなこと、今までなかったのに。
 先に触れ合ったのは、お互いの白い吐息だった。

「いいのか?」

 低い声で囁くように訊かれてもなにも言えなかった俺の腰をもっと強く抱いて、この前のように、親指の腹が俺の唇に触れる。くそ、思い切り噛んでやろうか?
 そう思ったのは一瞬で、すぐに指が離れた。そのまま頭を抱かれて、まるで俺が覆いかぶさるような形でティバーンに引き寄せられる。

「いいんだな?」

 目を閉じろなんて言われても、従えなかった。だって、どうせ見えないんじゃないのか?
 こんな時、どうすればいいのかわからないし、わかりたくもない。
 おざなりな確認のあと、ゆっくりと俺の唇に触れた体温は、ティバーンの唇から伝わったものだった。
 手から松明を落としそうになる。代わりに、さっき拾ったティバーンの羽が落ちて少し身じろいだ。

「………どうした?」
「あんたの羽が……」

 少し離れたティバーンに訊かれてつい正直に答えると、初めて頬が熱くなった。なんでそんなものを握ってたんだって訊かれたら、どう答えたらいいかわからない。
 思った通り、「ああ、そういや拾ってたな」と笑ったティバーンが俺の鼻に口づけて、また唇を重ねられる。
 それから、唇を触れ合わせたままで言われた。

「俺の羽根なんか、あとでいくらでも抜いていいぜ」
「……丸禿げにするぞ」
「おまえになら全部やるよ」

 嘘をつけ。そんなみっともない鳥翼王を、俺がどこに出せるって?
 大体、そんな面倒はごめんだね。
 離れる前にぺろりと唇を舐められて、慌てて袖で拭う。ティバーンは気楽に笑ってるが、こんなことされた俺の方はたまったものじゃない。
 気がつけば、もう村の上だった。ただ浮かんでいただけだと思ってたのに、ちゃんと村の方を目指してたんだな。
 俺が持ったままの松明をちょうど酒場から出てきた男に渡して、ティバーンはそのまま強引に窓から宿の部屋に戻った。
 ここはベオクの村なんだから、一応ベオクの常識にのっとった行動を取って欲しいのは俺のわがままかね?

「気が利いてんな。ネサラ、風呂に入れるぜ」
「……先に入れ」
「いいじゃねえかよ、いっしょに入ろうぜ。ほら!」
「いやだ!」

 なんとなく、本当になんとなくだが、今ティバーンの前でだけは脱ぎたくない。
 そう思って腕の中でもがくが、ティバーンはおかまいなしだ。

「どうせランプ一つの明かりじゃ、ろくに見えねえよ」
「おいッ」

 まるで何回も練習して俺を脱がせたことがあるんじゃないかと言いたいぐらいの素早さで上着を剥かれて、俺はあわてて浴室に飛び込んだ。
 裏返された洗面器にメモがあり、村人の頼みで風呂を沸かしておいたと店主の字で書かれている。寒かったから誰かが気遣ってくれたらしい。
 その気持ちは有難いんだが、今はかなり迷惑だ。

「なんだよ、水くせえ」
「うるさい!」

 幸い、この湯船は一人用だ。先に入ってしまえばティバーンは入れない。
 そうと決めたら腹を据えて、俺は脱いだブーツを中に入ろうとしたティバーンの顔面に投げつけてもう一度扉を閉め、下着ごと下ろした下穿きを僅かに開けた扉の隙間から外に放り出した。

「おいおい、なんだこりゃ?」
「俺はあんたのせいで裸にされたんだ! 掛けておけ!」

 怒鳴りつけると、渋々とティバーンが従う気配がする。
 ……なんとかなったか。くそ、なんでこんなことになったんだ?
 冷えた肌に熱く感じるお湯を掛けて、そろそろと湯船につかると、俺はすぐに翼を消した。
 翼を出したままだとベオク用の小さな風呂桶は小さいからな。
 顔を洗って、こんな場所だが土地の風習なら仕方がない。片隅に置かれた房楊枝と塩で歯も洗って、俺はようやく一息ついて暗い天井を仰いだ。
 …………油断した。この前も危ないと思ったのに。
 触れた唇の感触が忘れられなくて、俺は意味もなく唸りながらぶくぶくと湯船の中に沈み込みそうになった。
 昨日まではこのお湯まで俺に襲い掛かってくるんじゃないかと思っていたのに、今はそんな不安もどうでもいい。
 あんなことをするのか……。
 俺も子どもじゃない。知識ならごまんとあるさ。キルヴァスでは性的ことは間違いを起こさないために、最初の発情期前に教えられるからな。
 元老院の連中にだが、行為だって見せられたことがある。
 ……奴隷にされた鴉の娘を犯すことで、あいつらは俺が泣いて許しを請うことを好んだ。俺がされる方が何倍もましだ。そう思う気持ちを見透かされたんだろうさ。
 その自分の至らなさで犠牲にされた娘たちのことを思うと、この先なにがあろうと俺は生涯誰かに寄り添いはしないと決めた。
 これはティバーンたちだけじゃない。俺自身の民への償いの一つだ。
 それなのに、……ティバーンの唇から逃げなかったことで大きな罪を犯したような気持ちになる。

「ネサラ、大丈夫か?」
「……うるさい」

 ティバーンにされた口づけは、知識の中にあるものとは全然違っていて驚いた。きっと、この罪悪感はそれが理由だ。
 心配そうな声に不機嫌に応えても、ティバーンは気にした様子もない。あろうことか扉まで開けられた。

「おい、ティバー…」
「いいかげん出ねえとのぼせるだろうが」

 でも、そのまま入ってきたところで怒鳴ろうと振り向いた先のティバーンの姿に仰天して、慌てて全身で視線をそらす。
 な、なんで素っ裸なんだ? 鷹ってのは本当に、どこまで無神経なんだ!?

「ほら、見ねえから立てよ。これなら身体も隠れるだろ」
「……信じられん」
「嘘じゃねえ。見ねえよ。ほら、目を閉じたぜ」
「そういうことじゃ……」

 言い終わる前に強引に立たされた肩にガーゼのバスローブが掛けられて、俺は何も言えずに湯船を出た。
 ティバーンが本当に目を瞑っていたかどうかはわからない。顔を上げる勇気がなかったからだ。

「先に寝てろ」

 なにも言わない俺をなだめるように背中を押されて浴室から出される。
 髪から落ちる雫を棚から取った手ぬぐいで押さえながら、俺はなんとも言えない気分で寝台に腰を下ろした。
 あんなことの後なのに、情けない。こんなところで死んだあの虎に申しわけない気がした。
 ……鴉が他人に肌を見せない習慣には、深い理由はない。
 ただそれが慎みなのだと、俺たちは知っているからだ。
 たぶん、ラグズの中でも俺たちの感覚はベオクに近いんだろう。
 あとは、同じ鳥翼族である鷹の民に対して、肉体的な劣等感もあったんじゃないかと俺は思っている。
 一般に鴉は鷹に比べて細くて白い。もちろん鷺ほどじゃないが、俺たちは鷺の民にとっては良き隣人でも、鷹の民からは劣等種だと思われていたんじゃないかと思う節がある。
 ラグズにとって力がないってのはそういうことだ。だから代わりに知恵を、そして手先の器用さを磨いた。
 キルヴァスの冬の風は冷たいし、夏の日差しは強い。俺たちの肌にはどちらも厳しくて、自然に肌を露出しないようになった。
 ……それが普通なんだ。それなのに鷹の連中は人前で平気で脱ぐし、それを他人にも強要する。あれはよせと何度もティバーンに言ったのに、部下に守らせても自分が守らないってのはどういうことなんだ?
 しばらくして、ティバーンも風呂から上がってきた。緊張したが、さすがにもう素っ裸はないな。下穿きはちゃんとはいてる。

「おいおい、湯冷めするぞ」

 ティバーンはまだ座ったままの俺に驚いて、自分の肩に掛けた手ぬぐいで慌てて俺の髪を拭き出した。

「いい。自分を拭け」
「もう終わった。せっかく熱が下がったのにぶり返したらどうする?」
「そんなの………」

 平気だ。もうそこまで弱ってない。
 そう言いかけたけど、俺はそれ以上続けずにただティバーンに背中を向けて夜着に着替えた。
 視線は感じない。一応、こんな時に見ない礼儀は覚えてるらしいな。
 それがわかって少し褒めようと思ったのに。

「………おい」

 今度は後ろから抱きしめられた。
 湯気が出そうなほど暖かく湿った分厚い胸板を背中に感じて、氷のような声で不満を露にする。
 そのまま寝台に膝で乗り上げられて、俺が掴み掛けていたカーテンを引かれた。
 カーテン越しにうっすらと遠いかがり火の炎の色がわかる程度で、俺の目にはほとんど真っ暗だ。

「本気で羽根をむしらせてくれるのか?」
「いいぜ」

 口が渇いてきた。べつに水が足りないことはないのに。
 心臓が慌しく動き出して、それが俺を抱くティバーンの腕に伝わってるかと思うと悔しい。

「…ッ」

 湿った頭にティバーンの鼻が当たって、次に触れた温もりが唇だとわかった。頭は体臭が強い場所のひとつだ。
 そんなところで息をされるのは正直、いい気持ちがしない。

「耳が熱い」
「ふ…風呂上りだからな」

 尖った耳の先にも吐息が当たる。そのまま唇に咥えられて、いよいよ心臓が壊れそうな気がした。

「あんまり固くなるな。襲いやしねえよ」

 そうなのか? これは、襲われてるんじゃないのか?
 囁かれた言葉を信じる根拠を探している間に、もっときつく抱きしめられる。
 ………苦しい。でも、もう少し苦しくなっても大丈夫か? 人の躰ってのは案外丈夫なものなんだな。俺は壊れるところばかり縁があったんだが。
 なんだか他人事みたいにそんなことを考えていると、くるりと視界が回る浮遊感の後で自分の身体が寝台に転がされたのがわかった。
 ティバーンもいっしょだ。

「ティバーン…狭い」
「どうせいっしょに寝る時にゃ、このぐらいの幅しか使ってなかった。気にするな」

 いや、気になる。
 背中で笑った気配がして、少し隙間が開いた。でも、安心するには早かった。毛布が掛けられても、ティバーンは俺を背中から抱いたままだ。
 どうすれば追い出せるのか考えたいのに、いつもは滑らかに動く頭が今日は錆びた歯車よりも動きが鈍い。

「お、おい…ッ」
「ん?」

 耳の後ろに唇と熱い舌がかすかに触れて、我ながらうろたえた声が出た。
 なんだかまずい事態になった気がするが、明らかに腕力で敵わない上に背中にいられたら翼を出すことも厳しい。このまま出したら絶対折れるぐらいには密着されているからだ。

「襲わねえって」
「あのな、じゃあ今やってることはなんだ?」
「唇を許しといてケチケチすんな」
「あれは奪われたんだ!」
「似たようなもんじゃねえか」

 いや、そこは違うだろう。なんで笑い事になってるんだ!?
 うなじにまで唇が滑って、じんっと耳の先に痺れが走る。後れ毛をかき上げる指の動きがやけに生々しい。

「……ぁ、…う………っ」

 小さな声が勝手に漏れて、俺は慌てて首を振って離れようとした。

「嫌か?」

 当たり前だ。
 何回も頷くと、やけに甘いため息をついたティバーンが笑って、ようやく身体を起こした。
 やれやれ、やっと諦めたか。

「おいっ」
「こうやって寝るだけだ」

 そう思ってほっとしかけた俺の期待を裏切って、荷物のように身体を返されて今度は正面から腕の中に閉じ込められる。
 でもいっそ蹴ってやろうと動かした膝に固いものが触れて、俺は今までで一番固まった。

「な…んか……」
「ん?」
「固いぞ、おい……」
「あぁ、そりゃ勃ってるからな」

 そこで初めて全身に戦慄が走った。慌ててもがこうとした俺に「まあまあ」なんて呑気に声をかけると、ティバーンは笑ったまま俺を抱きしめてまた転がる。俺がティバーンの身体の上に乗るように。

「まあ、そんなわけなんであまり酷いことはしないでくれ。子を作れなくなったら王の資格がなくなりそうだ」
「されたくなきゃ離せ。俺はもう寝たいんだがね」
「このまま寝ちまえよ。べつにこうなったからって無理におまえで処理するほど切羽詰ってねえ。ただ、おまえの匂いを嗅いで寝たいだけだ」

 つまらないことを言うな。
 そう言いたかったが、俺を逃がすまいと抱いたティバーンの身体から立ち上った匂いを感じて、俺は動けなくなった。
 匂いだけじゃない。……甘ったれな王だな。
 あの「目」と「耳」がどれだけこいつを甘やかしてきたかわかる。
 傷ついたわけじゃないな。それでも、まだ残っていたなりそこないのあの虎の死を、あの命を……ティバーンは悲しんでいるんだ。

「お? 諦めたか?」
「……命令すればいいだろ。俺は、あんたに逆らえない」
「しねえよ」

 ティバーンは強い。それに、優しい。
 本当に、呆れるぐらい昔から変わらないな。
 ……こんな男の同胞の命を奪う片棒を担いだ。そのことは一生、俺の中で深い痛みとなって残るだろう。
 取り返しのつかないことはいくらでもある。その一つ一つを忘れちゃいけない。
 だから、ティバーンの優しさに苛立つ度に胸に過ぎる鋭い痛みが、いつか癒えてしまうのが怖かった。
 ………生きながらえて一番恐れていた感情が、多分これだ。

「匂いは素直なんだがなあ」
「匂い?」
「おまえの匂いだよ。凄く、いい」
「……だから、そこを固くするな」
「男ってのはここが一番正直なんだよ」

 人が真剣に考えているのに大腿に当たるそれがまた質量を増した気がして、他人事なのにやたら恥ずかしかった。
 ティバーンの匂いも強くなる。やっぱり、他人の匂いが混ざってないのはいいな。
 ……いや、俺の匂いは混ざってるか? 自分の匂いは通常感じないはずだから、違うかも知れないが。

「おい、触られたらさすがに辛抱がきかなくなるだろが」
「…………」

 こうなったら辛いんだろう? そう言ってせめてここだけはなんとかしてやるべきか。でなけりゃ俺が落ち着かない。
 そう思って手を伸ばしたんだが、直接手に感じた質量の迫力にたじろいですぐに手を引き、俺は真面目に考えた。
 いや、納得したんだ。
 そうか、あの「破れる」ってのは物理的な意味だったんだな。確かにこれでは無理もない。
 もしかしたらどこかに……なかったか? ないか。でも作ればあるいは……。

「ネサラ? 本当になにもしねえぞ?」

 ティバーンが顎に指を当てて考えはじめた俺の頭を撫でて言う。
 どうやら、本気で我慢できるらしいな。短気な鷹のくせにと褒めるべきかも知れない。
 そう思って俺は言った。妙なところで気を遣う、甘ったれな鷹の王に。

「牛もいる」
「……あ?」
「だから、羊や豚の腸は無理でも、牛なら図体がでかい分あんたのこれに被せても大丈夫な避妊具ができるかも知れん。それがあればこんな時に女のところへ行けるんじゃないのか?」

 俺は真面目に言ったんだがね。
 ティバーンは一瞬黙ると、また盛大に笑い出した。
 なんと言うか…こいつが大笑いするたび、俺は物凄い徒労感に見舞われるというか、空しい気持ちになるというか……。
 怒る気にさえなれないのは、もしかして俺もこいつに甘いのか?

「出て行け。俺は寝る」
「悪いッ、いや、悪かった。おまえの思いやりをないがしろにする気はねえよ」

 ひとしきり笑って涙まで拭いてるらしいティバーンに呆れて体温の高い身体の上から降りようとすると、ティバーンが慌てて俺を引き止めてころりと俺を窓際に落とす。
 肩口に乗せられた頭を引き剥がすよりも、ティバーンの手が俺の頬に添えられる方が早かった。

「ベオクの女を抱くほど切羽詰っちゃいねえよ。もちろん、ベオクにもいい女がいるのは事実だがな」
「鷹の女を連れて回るわけにいかないんだから、こんな時に困るだろう?」
「どのみち、発情期じゃなかったら女が燃えねえ。俺もつまらん。だから要らん心配だ」

 そうなのか? ……まあ、本人が要らないと言ってるものを押し付けるのもな。
 そう思って黙ると、ティバーンがまるで雛のころのように何度も俺の前髪をかき上げて、優しいため息をついた。

「いい具合に気が殺がれた。礼を言わねえとな」
「べつに、そんなこと」
「羽根はどうする?」

 額を合わせたティバーンの背中で、ざわりと大きな翼が現れる音がした。
 見えなくても、その見事さはよく知ってる。どんなに荒れた風にも負けない、鴉のように魔力で風を馴らさなくても、力で捻じ伏せて飛ぶことの出来る猛禽の翼だ。
 鼻先も触れて、なんだかくすぐったくなって俺は小さく笑った。
 大きな厚い手に頬を包まれる。

「もう一回だけ……いいか?」

 なにを? なんて、訊かなくても唇に触れた指の感触でわかった。
 頷くわけでも、首を振るわけでもない。俺の答えは沈黙だ。
 否定しない限りこの男は自分のいい方に答えを決める。
 それがわかっていたのに、俺は「嫌だ」とは口にしなかった。
 こんなこと、今だけだ。セリノスに帰れば忘れる。
 きっと俺も、ティバーンも、感傷的な気持ちになってるだけだ……。
 そっと触れてきた唇は、あの荒々しい鷹の王のものだとはとても思えないほど、優しかった。
 無意識にティバーンの背中に回した俺の腕が、まだ消していない強靭な翼を撫でたくなるぐらいに。
 角度を変えられて息をして、でもまた触れて……長い。
 一回じゃないだろ。何回する気なんだ?
 抗議の証として本当に羽根をむしってやろう。
 そう思っていたはずなのに、頑固な俺の指は鳥翼王の翼を大事だと判断したらしく、ただ滑らかにざわついたティバーンの羽根の規則正しい流れを撫でただけだった。





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